こんにちは、アジです。
「40代おひとりさま」の私は時に揺らぎが起こります。
揺らぎは更年期障害なのか、おひとりさま特有のものなのか、全ての人に起こるものなのか。
更年期障害の可能性もいくらかは含みつつ、また全ての人に起こりうるのものではあるものの、おひとりさまに起こるのものは独特の体をなしているのかもしれません。
未来を想像したとき、そこがなんだか恐ろしい場所かのように感じ、1人で居ることの不安で揺らぎが起こる人も多いでしょう。
私の揺らぎ
私にそれが起こるのは現状を他人から指摘された時。
親族は遠慮がない分、他所様にはそうそう言わないであろう言葉を平気で投げてきます。そしてまた親族からの視点というのは、余所行きではない自分に対する言葉だけに図星である事が多く、ズシンと響いてしまうのですね。
将来の不安より
一般的な「おひとりさま」にはないであろう他の心配事。
私のような収入が不安定な者には老後一人でいる事の不安はどちらかというと起こりにくく、今現在に対する不安の方が多くを占めています。
後先考えられない、目先のことしか見れないという言葉を突きつけられたら返す言葉もありませんが、生きているか分からない老後の心配より今日明日の飯の方が大切。
心の安定と生活の安定
友人が掛けてくれるような「きっとアジちゃんには他にもっと良いところがあるよ」「お金よりも今は自分を労ってあげてね」
なんて優しい言葉は親族間においては飛び交いません。
心の安定を願う友人と、生活の安定を願う親族。そのどちらもが私には必要ですが、どうしても楽観的な考えに偏りすぎる私。
見ないふりをさせてもらえない
世の中には自ら選択して社会のレールから外れる者、信念を持ってその道を生きている人がいる一方で、私の場合はレールがどこにあるかさえ未だ分からず。
「刹那的な生き方」「刹那主義」といえば、男はつらいよの寅さんのような風来坊の粋の良さを僅かに感じさせますが、寅さんが言ったように勝手気ままに生きていては銭になりません。
身近にそんな親族が居ては困りごとなのは分かるからこそ、現状を指摘された時にグラッとなってしまうのです。
銭を稼ぐ
現実と向き合う必要が出た時に思うのが、息をするためには銭を手にしていなければならない、ということ。
今日という日を、一分一秒を滞りなく生きるには、世界に対して貢献をしなければいけません。
文明が開化される以前に生きていたとて、獲物を捕獲することも石器を作ることも出来ない私は、海岸で石拾いでもしてその美しさにみとれていたでしょう。
まとめ
40代おひとりさまの私に久しぶりに起きた揺らぎは親族からの厳しい指摘によって起き、不安と虚しさを呼び起こしました。
その揺らぎもまた1つの起爆剤となり、しばらくのあいだ奮闘するのでしょう。